町点(ちょうてん)-町ブラと歴史を愉しむ旅

「書を捨てよ町へ出よう」そうすればあなたが探していた宝物と忘れ物が見つかるかもしれない。

兵庫県洲本市ー淡路島最大の町を歩く 第二章

 

兵庫県洲本市マンホール

前回の第一章では、淡路島洲本市の海岸沿いの町並みを採り上げた。

choten.hatenablog.jp

 

洲本内町外町

今回は、江戸時代の町割りでいう「内町」を、ゆっくりと歩いてみることにする。

 

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兵庫県洲本市ー淡路島最大の町を歩く 第一章

町を歩きながら懐かしいものを見つけ、歴史を勉強する「町点(ちょうてん)」の第一弾を、どこにしようかしばらく考えていた。

私は現在、居を淡路島に構えているのだが、そもそもの出身は海を隔てた大阪である。現時点では、淡路島に居候の身である。しかし、悲壮感ただようようなものではなく、むしろ逆に開放感にあふれている。こちらに来て以降、ブロイラーのように肥えてしまったのがその間接的な証拠であろうと思う。

第一号は気心知れた大阪でも良かったのだが、今お世話になっている淡路島最大の都市、洲本がいちばんふさわしいだろう。私の中でそういう結論に落ち着いた。

 

洲本史概要

洲本市の位置

洲本市の名前は聞いたことがあっても、その位置となると案外知らない人が多い。淡路島の少し南に位置し、東に海が開けた海辺の町である。

洲本には戦国時代に安宅氏が城を築いていたのだが、町の始まりは江戸時代の太平の世が明けた時に始まる。豊臣秀吉の家臣であった蜂須賀家政関ヶ原の戦いで東軍につき、大阪の陣の勲功により阿波(徳島県)の他に淡路一国、つまり島ごと与えられることとなった。

淡路には既に、洲本の南にある由良という城下町があったのだが、地形的に将来的な発展は見込めなかった。そこで城下町ごと由良から洲本への移転を断行し、寛永7年(1630)に洲本川河口に城と城下町を建設した。これが洲本の町の始まりである。

また、徳島藩は淡路島に対し、徳島からの直轄統治ではなく、家臣による間接統治を選んだ。藩の筆頭家老である稲田修理亮が城代として洲本に常駐し、明治まで淡路は稲田氏の間接統治が続いた。淡路は登録上は1万4千石の土地だが、外様とは言え大名の家臣が大名並みの石高を持つのは、江戸時代を通しても数例しかない珍しいケースである。

 

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洲本市街は東に紀伊水道、西に千草川、北は洲本川、南は洲本城がある三熊山に挟まれた区域に作られ、現在でも碁盤の目に区切られた17世紀の町割りが残っている。

現在は「堀端筋」と呼ばれている通りは、江戸時代は町を南北に貫く堀として機能していた。この堀はまた、洲本の町を東の「内町」、西の「外町」に分ける役目も担っていた。

堀まで作り町を分けようとしたのには、当然理由がある。「内町」には中級、上級武士、「外町」には下級武士や町人の住居地及び寺社の敷地であったのだが、亨保年中(8代将軍吉宗の頃)に作られた「洲本御山下画図」によれば、「内町」の中に町家があったりと厳密に区別はされていなかったようである。

 

今回の洲本編は、「内町」から「外町」へと歩いていくことにする。

 

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