町点(ちょうてん)-町ブラと歴史を愉しむ旅

「書を捨てよ町へ出よう」そうすればあなたが探していた宝物と忘れ物が見つかるかもしれない。

兵庫県洲本市ー淡路島最大の町を歩く 第一章

町を歩きながら懐かしいものを見つけ、歴史を勉強する「町点(ちょうてん)」の第一弾を、どこにしようかしばらく考えていた。

私は現在、居を淡路島に構えているのだが、そもそもの出身は海を隔てた大阪である。現時点では、淡路島に居候の身である。しかし、悲壮感ただようようなものではなく、むしろ逆に開放感にあふれている。こちらに来て以降、ブロイラーのように肥えてしまったのがその間接的な証拠であろうと思う。

第一号は気心知れた大阪でも良かったのだが、今お世話になっている淡路島最大の都市、洲本がいちばんふさわしいだろう。私の中でそういう結論に落ち着いた。

 

洲本史概要

洲本市の位置

洲本市の名前は聞いたことがあっても、その位置となると案外知らない人が多い。淡路島の少し南に位置し、東に海が開けた海辺の町である。

洲本には戦国時代に安宅氏が城を築いていたのだが、町の始まりは江戸時代の太平の世が明けた時に始まる。豊臣秀吉の家臣であった蜂須賀家政関ヶ原の戦いで東軍につき、大阪の陣の勲功により阿波(徳島県)の他に淡路一国、つまり島ごと与えられることとなった。

淡路には既に、洲本の南にある由良という城下町があったのだが、地形的に将来的な発展は見込めなかった。そこで城下町ごと由良から洲本への移転を断行し、寛永7年(1630)に洲本川河口に城と城下町を建設した。これが洲本の町の始まりである。

また、徳島藩は淡路島に対し、徳島からの直轄統治ではなく、家臣による間接統治を選んだ。藩の筆頭家老である稲田修理亮が城代として洲本に常駐し、明治まで淡路は稲田氏の間接統治が続いた。淡路は登録上は1万4千石の土地だが、外様とは言え大名の家臣が大名並みの石高を持つのは、江戸時代を通しても数例しかない珍しいケースである。

 

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洲本市街は東に紀伊水道、西に千草川、北は洲本川、南は洲本城がある三熊山に挟まれた区域に作られ、現在でも碁盤の目に区切られた17世紀の町割りが残っている。

現在は「堀端筋」と呼ばれている通りは、江戸時代は町を南北に貫く堀として機能していた。この堀はまた、洲本の町を東の「内町」、西の「外町」に分ける役目も担っていた。

堀まで作り町を分けようとしたのには、当然理由がある。「内町」には中級、上級武士、「外町」には下級武士や町人の住居地及び寺社の敷地であったのだが、亨保年中(8代将軍吉宗の頃)に作られた「洲本御山下画図」によれば、「内町」の中に町家があったりと厳密に区別はされていなかったようである。

 

今回の洲本編は、「内町」から「外町」へと歩いていくことにする。

 

 

洲本港

 

 洲本は海辺の静かな町である。淡路は島なので当然他の町にも港はあるのだが、洲本ほど町の中心に存在している町はない。

 

洲本ポートターミナルビル

洲本ポートターミナルビルという白亜の建物が港に立っているのだが、その威容に反してここから発着する船はほんのわずかである。

 

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 ターミナルの波止場にも、旅客船の一隻も泊まっていない。ガランとしていて船どころか人の気配すらない、寂しい港となっている。

この光景からは信じられないのだが、かつて、具体的には明石海峡大橋が完成するまで、洲本港には大阪や神戸、和歌山からの関西から、そして反対側の四国から船が観光客や帰省客を吐き出すように発着していたのだ。

 

洲本港の混み具合昭和30年代

昭和30年代の写真だが、洲本港で船を待つ船客の数に圧倒される。のちに車搭載可能な船も出現し、船を待つ車の行列もかつての洲本名物だったという。

 

洲本の活タコ売り

もう一つの船客向けの名物が、活きたタコを蛸壺ごと販売する露店だった。明石はタコで有名だが、洲本でもタコが、それも活きたタコが入ったツボごと売るというダイナミックな商売がかつてはあったのである。現在、その姿を見ることはない。

 

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洲本港は淡路島への入口として多くの人が船で訪れ、大いに賑わったのだが、明石海峡大橋と鳴門大橋の開通が人の流れを大きく変え、今は静かな港として少し寂しげな姿をしている。かつての栄光を顧みてもそれは返って来ないのだろうが、繁栄ぶりの写真を見た後で見る現在の洲本港は、今は静かな眠りについている状態なのかもしれない。

 

港の入口にあった洲本遊郭

 

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洲本港を離れ、「内町」の海沿いを歩いてみる。

 

洲本港のすぐとなりにある場所は、現在は「海岸通」という地名になっている。かつては「漁師町」と呼ばれていたこの区域には、かつて女性の白粉の匂いが強く漂った男と女の園があった。その名を遊郭という。

昭和初期には、全国に500ヶ所以上(外地を含む)の遊郭が存在し、中には江戸時代からの歴史と伝統を持つ格式高い所もあった。遊郭とは何か知らなくても、東京の吉原(よしわら)の名前は聞いたことがあるだろう。その吉原が遊郭の典型であった。

船乗りたちは、長い時には数週間から1ヶ月あまり、陸とは無縁の生活を送ることがある。船という男だけの世界に閉じ込められると、必然的に女を抱きたくなる。米英との歴戦を戦い抜いた日本の元海軍中佐は言った。上陸する頃には甲板を「三本足」で歩いてたものさと。もう一本の足を解説するのは、野暮というものである。

よって港のあるところには必ず遊郭がある。洲本も例外ではない。ただし、洲本遊郭の歴史は近代日本の夜が明けてからのことで、許可されたのが明治30年(1897)。遊郭の中ではそれほど古い分類ではない。

洲本遊郭に関しては、昭和5年(1930)の内務省警保局*1の内部資料によると、妓楼数20、娼妓数81人、登楼者数56,244人。数字だけを見ると地方の小さな遊郭だったようだ。その他は『洲本市史』に若干記載がある程度で、大したことは書いていない。遊郭はその性格から、公式な歴史から抹消されている場合が多い。洲本遊郭の資料はほとんど残っていなかったが、市史に歴史的事実として書かれているだけでも、洲本はまだ良心的な方であろう。

 

旧洲本遊郭の通り

遊郭の大通りだったはずの道である。洲本市の資料によると、昭和33年の売春防止法施行で廃止になった後も、昭和50年代まで建物はほぼそのままの形で残っていたそうだ。

しかし、残念ながら現在にその姿を見ることはできない。もしかして数軒残る長屋風のような和風の建物がそうかもしれないが、外観でははっきりとした証拠が見つからないため、確証は持てない。おそらく廃止後に建て替えられたものだろう。

 

旧洲本遊郭跡俯瞰写真昭和40年代

しかしながら、昭和45年の洲本市街の写真から旧遊郭の場所を拡大してみると、この時代には確かに「ほぼそのまま」残っているだろう、屋根が並んだ家々が並んでいる。赤で塗った細い道筋が旧遊郭である。この写真を見て、私は確証を持った。Google mapの航空写真と見比べれば明らかである、旧洲本遊郭にはもはや何も残っていないと。

 

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 今は、野良猫がのんびり陽の下を歩く裏路地としてその余生を過ごしている。

 

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遊郭の建物は残っていないが、細かいところに匠の技術を残す和風の建物は残っている。

 

洲本に残る昭和なタバコ屋さん

昭和な片鱗もわずかながら残っていた。すでに閉業しているが、タバコ屋のこの構えはかつて街角のどこにでも見られていたものだ。

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このカラフルなタイル使いは、昭和前期~30年代前半によく見られた様式である。さりげないタイルでの色使いに、この店の粋を感じる。

 

遊郭跡から離れ、足をさらに南へ向けて行く。

 

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「洲本温泉」の看板から先へ行くと、淡路島有数の温泉街にたどり着く。

この看板を正面に左を向くと、街はずれにある大浜海水浴場の砂浜を見ることができる。

 

淡路島洲本大浜海水浴場と松

現在は海水浴とは真逆のシーズンなので、海岸に人はほとんどいない。当然人の声も全くなく、おだやかな波の音だけが私の耳に入ってくる。

しかし、シーズンになると島内外から海水浴客が訪れ、ここが黒山の固まりでいっぱいとなる。

 

昭和初期の洲本大浜海水浴場

その賑わいははるか昔から続く。昭和初期のこの写真を見るだけでも海水浴が盛んだということがわかるだろう。

このブログが夏まで続けば、その時の大浜海岸も訪れて写真に撮っておこうと思う。いや、それまで続けるつもりではあるのだが。

 

淡路島は、学校の授業に海水浴(水泳)を早くに取り入れた地域でもあるという。特に明治時代の女学校での海水浴の授業は、あまりに画期的すぎて周囲から猛反対を受けたという。

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この写真は昭和初期の大浜海岸での小学校の水泳実習の風景だが、珍しいのは男女合同ということ。「男女七歳にして席を同じくせず」という言葉があり、小学校から男女は別々に授業を受けていたとされてきた。しかし、それは都市だけで地方にまで普及していなかったという。そういう実情があるにしても、水泳の男女合同は珍しい。

 

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個人的には、人の足跡がない、波と風の音だけの海岸も好きである。誰もいない海岸でデッキチェアに寝転び日向ぼこをする。こんな至福の時はあろうか。ただし、確実に変人扱いされるどころか、運が悪いと警察を呼ばれそうなので、目下やる勇気はない。

 

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これも昭和初期の大浜海岸を写した写真である。二人の女性の顔からして姉妹だろうか。水着に時代を感じる。

女性の奥に伸びる突堤から見るに、私が写した上の写真に近い場所で撮影されたのではないかと思う。

 

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 大浜海水浴場を離れたところ、前の信号の形が少しおかしい。
信号灯はLEDなので古いタイプではないのだが、どこかおもちゃのような安っぽい感じがして違和感を感じる。

 

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 この信号を横から見てみると、実に薄い。こんな幅が薄い信号を見たのは初めてである。
信号も薄型の時代になってきているのだろう。

 

続きはこちら。

choten.hatenablog.jp