兵庫県洲本市ー淡路島最大の町を歩く 第二章
前回の第一章では、淡路島洲本市の海岸沿いの町並みを採り上げた。
今回は、江戸時代の町割りでいう「内町」を、ゆっくりと歩いてみることにする。
谷崎潤一郎ゆかりの旅館
まず迎えるは、洲本の旅館、「華海月」である。
なんということもない普通の旅館だが、ここにはかつて「なべ藤」という旅館があった。
1830年(文政13)創業の老舗旅館で、谷崎潤一郎が長期滞在しここで小説「蓼(たで)食ふ虫」を執筆した。
1995年に島を襲った阪神・淡路大震災で半壊し翌年に営業を再開したものの、経営が悪化し身売りされ、2009年に地元のホテルが競売の末落札し再再開した。しかし、「なべ藤」の屋号は諸事情で使えず「華海月」という名前でオープンしている。
中には「蓼の間」という部屋があり、谷崎が執筆に使ったという机が残っているという。
その「華海月」の隣に、古くからありそうな雑貨店が残っている。
昔はどこにでもあったような、佇まいが懐かしい雑貨店である。こういうお店番はたいてい腰が曲がったおばあさんで、10円や50円玉を握って駄菓子を買いに行ったのは何十年も前のことになる。
海老商店には、「キンキパン」という見慣れないパン会社の看板が掛けられている。かすかに神戸の文字が見えるので、神戸のローカルブランドのパンだろうか。
調べてみるとその通りのようで、神戸っ子には少し懐かしい響きがするブランドらしい。今は㈱オイシスという名前に変わっているようだ。
「華海月」と「海老商店」の前、マルナカ洲本店があるあたりは、昔は海であった。
大阪や神戸、四国などからの船が洲本港に着き、乗客が淡路島の地に降り立った目の前にまず見えるのが、旧「なべ藤」と海老商店だったのだろう。海は埋め立てられスーパーに変わってしまったが、この二つは昔の位置のまま洲本の歴史を見続けている。
洲本の賑わいを示す、一枚の写真がある。
(画像提供:ブログ『地方私鉄 1960年代の回想』様)
1960年代の洲本市街地の写真である。写真の右端が「海老商店」というアングルである。
ほぼ同じアングルから撮った、2018年の写真である。古い写真に見える「笹屋食堂」が現存していたため、確認は容易であった。
シーズンオフの真冬ということもあるだろうが、現在は50年前の賑わいとは程遠く、現代の方が物悲しささえ浮かばせている。写真の中で唯一残っていた「笹屋食堂」も、看板は残っているものの閉店してしまっているようだ。
南下し西へ
海岸通りを南下し、
右折し西へ向かい、街の中に入ってみる。
左側には洲本第二小学校が建てられている。歴史は明治6年(1873)にさかのぼり、宝塚歌劇団の名女優、大地真央(洲本生まれ)の母校でもある。彼女もこの道を通って通学していたのだろうか。
一見すると特筆すべきことがなさそうな通りだが、やはりアンテナの感度を最大にしていると引っかかるものが多い。
近代日本の香りがそこからしてくるかのような玄関の電灯や、
「マンション」と書きながらいかにもマンションの佇まいではない「マンション」など、意識していないと無視してしまう昔の置き土産が引っ掛かった。
かつては、古い言い方でいう下宿屋のだろうか、家は奥行きがあり玄関も広く、まるで旅館である。看板には「第三」と書かれているので、かつては「第一」「第二」でもあったのであろうか。
「光陽マンション」に残る擦りガラス。昔の家にはよくあったスタイルのものである。なんだか懐かしささえ感じる。
「光陽マンション」は意外なほど大きい。横に洞穴のようなアパート風の住居もあった。目新しい自転車が置いてあるので、まだ誰かが住んでいるのかもしれない。
こちらの窓ガラスも、磨りガラスである。
謎のレンガ壁
洲本第二小学校の前の道をまっすぐ西へ向かっていると、ふと不思議な建物に出くわした。
大きなコンクリートの壁が、妖怪のぬりかべのように古い民家の前に立ち塞がっている。周囲を見ても両隣はふつうの民家であり、ここだけ明らかに異様である。
ミステリアスなコンクリートの壁の向こうにある民家に人の住んでいる気配はなく、すでに空き家のようである。が、玄関の屋根の上の、野良猫にしてはやけに毛並みが良さそうな三毛猫が番犬、いや家の主となり訪問客を睨みつけていた。
この壁が引っ掛かったまま、先へ進んでみると。
新しい住宅街には似つかわしくない、レンガの壁が。すでに壁に絡んだ蔦(つた)がこの壁の古さを物語っているかのようである。
近づいてみると、レンガの風化はそこそこで、赤レンガ建築が流行った明治ほど古くはなさそうだが、これは一体何か。
上のレンガの壁と逆の方向にも、同じような赤レンガ壁があった。
漆喰代わりのセメントが剥がれ、赤レンガがむき出しになった壁が残っていた。間近で見ると反対側にあったレンガと同一のものと思われる。真新しい住宅が並ぶ一角にこのレトロな壁、明らかにおかしい。
かつて、おそらく戦前には、この一角に「何か」があったに違いない。
残念ながら図書館でヒントとなるような資料は見つからなかったが、昭和22年(1947)の航空写真を見てみると、あることがわかる。
赤い丸で囲んだ地区に、規則正しい工場らしき建物の群が見える。
航空写真を極限まで拡大すると、より細かい形があらわれてくる。赤く塗った部分がどうやら敷地内らしい。
それを今に残る「コンクリートの壁の家」と「赤いレンガの壁」の位置を加えてみると、敷地内外の境界線付近にあることがわかった。
(日文研地図データベースより)
赤い星印をつけた位置に「謎のコンクリートの壁」があるのだが、その横に「鐘紡工場」の文字が見える。
洲本には、鐘紡(カネボウ)のかなり大規模な工場があったのだが、主要な建物は整備され、洲本市立図書館やテナントとして再利用されている。
しかし、そこから離れた位置にも工場があり、コンクリートの壁もその一部と思われる。「コンクリートの壁の家」は、工場内の通路と道がぶつかる場所にあるので、敷地内の入口の一つだったのであろう。
ボウリング場が夢のあと
赤レンガ壁の謎を残しながらその場を離れ、海へ向かって戻って歩いていると。
特に特徴もない建物なのだが、何故だろう、どこか私のアンテナに引っかかり、足がここで止まってしまう。
上を向くと、そこには「JET BOWL」の文字が。
どうやらボウリング場だった建物らしいのだが、その場でググってひととおり調べてみても、JET BOWLなるものは出てこない。かなり昔に廃業して放置されているのだろう。
中に入ってみるととてもそうには見えない。1階はこのようにスナックなどのラウンジ通りになっているのだが、すべてのドアに「テナント募集中」の文字が。つまり主なきラウンジの亡骸なのである。確かに亡骸ではあるのだが、これらに昭和末期のバブルの匂いを感じた。
2階もあるようなので、上ってみることにした。
踊り場に郵便受けが並んでいたが、さっと見てみると何も入っていない。2階は住居かオフィススペースなのだろうが、誰もいなさそうだ。
上がってみるとこの通り。床は痛々しいほほひび割れ、床にはゴミが散乱していた。少なくとも、人の住んでいる気配は全くない。こんな環境で人が住んでいたら、よほどの神経の持ち主だろう。私も無神経だと人によく指摘されるが、それでもここには住めない。
ドアもこの通り、塗料が剥がれ無残な姿を晒している。命を持たないモノに対してこういう感情を持つのもどうかと思うが、ここまで傷をさらしたままだと、可哀想に思える。
「JET BOWL」の裏へ回ってみた。
裏から見ると、ボーリング場の面影がかろうじて感じられる気がするが、すっかり廃墟になった今、廃墟マニアがヨダレを垂らしそうなところになりそうだ。
洲本という街は、決して大きな街とは言えない。今回回った区画も、大人の足ならほんの小一時間で周ることができる。
しかし、過去の歴史、懐かしい昭和の匂いを嗅ぎながら街歩きをしていると、こんなに面白い光景が見つかるものなのである。それが新しくも新鮮な発見かもしれない。
To be continued...